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黒部ダムを知る
くろよん建設ヒストリー 1917 - 1963
 
SPECIAL CONTENTS!
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  • 第一章 〜黒部川電源開発〜
  • 第二章 〜決断〜
  • 第三章 〜破砕帯との遭遇〜
  • 第四章 〜建設〜
  • 第五章 〜完成〜

くろよん建設の功労者へ 独占インタビュー

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黒部川電源開発
黒部川の電源開発は大正時代から始まりました。高い山々に挟まれた黒部峡谷は古くから人々をよせつけない地形でしたが、降水量が多く急峻な河川であることから、水力発電にきわめて有利な条件を備えていました。
黒部川電源開発
1917(大正6年)
高峰譲吉博士、黒部川の電源開発調査開始
1919(大正8年)
日本電力(株)発足
1923(大正12年)
日電による調査日電による調査
1927(昭和2年)
柳河原発電所運転開始
1936(昭和11年)
黒部川第二発電所運転開始黒部川第二発電所運転開始
1940(昭和15年)
黒部川第三発電所運転開始黒部川第三発電所運転開始
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決断
戦後の急速な経済復興は、関西地方に深刻な電力不足をもたらしていました。火力発電のでは変動する電力需要にすばやい対応ができなかったため、それを補うための水力発電の開発は、発足して間もない関西電力にとって急務でした。
決断
1955(昭和30年)
黒部ダム「くろよん」建設を決断黒部ダム「くろよん」建設を決断
1956(昭和31年)
6月 大町市に黒部川第四水力発電所建設事務所を開設
   大手土木建設会社5社に特命で工事を依頼
7月 「くろよん」建設工事着工7月 「くろよん」建設工事着工
8月 大町トンネル掘削開始
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破砕帯との遭遇
昭和31年8月に開始された大町トンネルの工事は全断面掘削機など最新鋭の機材を次々と導入し、工事は順調に進んでいました。ところが1,691m掘り進んだ地点で「破砕帯」に遭遇。「くろよん建設」最大の危機が訪れたのです。
破砕帯との遭遇
1957(昭和32年)
5月 破砕帯との格闘5月 破砕帯との格闘
 8月 社長現地視察、激励
12月 破砕帯突破12月 破砕帯突破
1958(昭和33年)
5月 大町トンネル開通5月 大町トンネル開通

現在の破砕帯 ▶現在の破砕帯

映画「黒部の太陽」 ▶ 

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建設
大町トンネルの開通により「黒部ダム」と「黒部川第四発電所」の建設が一挙に本格化し、急ピッチで進められました。
建設
1959(昭和34年)
起死回生の大発破起死回生の大発破
2月 黒部ルートトンネル開通2月 黒部ルートトンネル開通
9月 ダム本体のコンクリート打設9月 ダム本体のコンクリート打設

「ワダチ」モニュメント ▶「ワダチ」モニュメント

コンクリートバケット ▶コンクリートバケット

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完成
昭和38年6月、着工から7年の歳月を経て、総工費513億円、延べ1,000万人の人手により、国内最大級のダム水路式発電所「くろよん」竣工。
完成
1960(昭和35年)
10月 ダムへの湛水開始10月 ダムへの湛水開始
11月 通水式
1961(昭和36年)
1月 黒部川第四発電所1号・2号発電機運転開始1月 黒部川第四発電所1号・2号発電機運転開始
1962(昭和37年)
8月 黒部川第四発電所3号発電機運転開始
1963(昭和38年)
6月 「くろよん」竣工6月 「くろよん」竣工

「慰霊碑」 ▶「慰霊碑」

くろよん建設の功労者へ 独占インタビュー

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高峰譲吉博士、黒部川の電源開発調査開始

大正6年、タカジアスターゼの開発者として知られる高峰譲吉博士が、アルミ製造の電源を求めて、黒部の水力発電の可能性にいち早く注目し、現地調査を進め、その後の電源開発の重要な布石となりました。

日本電力(株)発足

大正8年12月、山岡順太郎が日本電力の初代社長に就任し、在任約9年、「電源ありしこうして産業あり」の信念に基づき幾多の難関を突破して会社の基礎を確立しました。

日電による調査

大正12年には、日本電力によって宇奈月から猫又間の軌道の敷設に着手。また日電歩道も開削され調査が進められました。

柳河原発電所運転開始

自然災害に阻まれながらも昭和2年に最初の発電所「柳河原発電所」の運転開始を皮切りに、黒部川第二、第三発電所と黒部川の電源開発が進められました。

黒部川第二発電所運転開始

黒部川第二発電所

黒部川第二発電所

黒部川第三発電所運転開始

黒部川第三発電所

黒部川第三発電所

黒部ダム「くろよん」建設を決断

社長の太田垣士郎は、「黒部はぜひとも開発しなけりゃならん山だ」と断言し、昭和30年秋、社運をかけ「くろよん(黒部ダム、黒部川第四発電所)」の建設を決断しました。

「くろよん」建設工事着工

昭和31年7月「くろよん」建設工事に着手しました。当時建設地点への資機材運搬は、日電歩道や雪の立山越えなどの人力やヘリによる輸送手段しかありませんでした。大型の資機材を運び込むためには、長野県大町側から北アルプスを貫く大町トンネル(現在の関電トンネル)の開通が必要不可欠でした。

破砕帯との格闘

破砕帯は岩盤の中で岩が細かく割れて地下水を溜め込んだ軟弱な地層。トンネルの入り口から1,691mの地点で突然トンネルの先が崩れ落ち、100立方メートルの土砂を押し出しました。摂氏4度という冷たい地下水と土砂が毎秒660リットルも噴き出し、工事は困難を極め、7月にはとうとう掘削作業が中断しました。

社長現地視察、激励

緊迫した状況下の昭和32年8月3日、太田垣社長は視察に訪れました。作業服にヘルメット、長靴に身を包んだ太田垣社長は、危険な坑内の奥まで進みながら作業員たちを激励しました。そして、太田垣社長の行動や言動が作業員たちの現場の士気、そして関西電力全社員の応援しようという気運を高めました。

破砕帯突破

破砕帯突破のために最新の工法が駆使されました。水を抜くトンネルを掘り、そこから水抜きボーリング作業を行い、薬剤とセメントで地盤を固める作業が行われました。
破砕帯突破に向けて、トンネル工法の権威者の知識と経験を集結し、7ヶ月にわたる苦闘の末、昭和32年12月ついに全長80mにおよぶ破砕帯を突破しました。

大町トンネル開通

破砕帯突破後、掘削工事は急ピッチで進められ、昭和33年5月、ついに資機材運搬の大動脈となる全長5.4kmの大町トンネル(現関電トンネル)が開通しました。

現在の破砕帯

現在の破砕帯

映画「黒部の太陽」

破砕帯突破までの苦闘は、石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」に描かれ、今に伝えられています。破砕帯出水の様子の再現に420tの水を使用した迫力あるシーンは当時も話題を呼びました。観客動員総数約730万人を記録し、後に文部省(現在の文部科学省)の推薦映画にも選ばれています。

※劇中主人公の実在モデル

起死回生の大発破

ダム本体工事では、ダム両岸を大量の火薬で爆破して一挙に山肌を剥ぎ取るという起死回生の大発破を実施し、工期の遅れを取り戻しました。

[くろよんへの想い]沼田充弘氏

黒部ルートトンネル開通

昭和34年2月には、ダムと発電所をつなぐ「黒部トンネル」が開通し、輸送路が確立しました。

ダム本体のコンクリート打設

昭和34年9月から始まったコンクリート打設作業は昼夜突貫の作業が続けられ、一日最大打設量は8,653立方メートルにも達し、驚異的なスピードでダム建設が進められました。

「ワダチ」モニュメント

当時の建設車両のタイヤ跡や現場作業員の苦闘の跡を残したモニュメント

コンクリートバケット

当時使用した建設機材の一部

ダムへの湛水開始

発電所をできるだけ早期に稼働させるため、コンクリート打設中にダムの完成を待たずして一部湛水を行う方式がとられました。

黒部川第四発電所1号・2号発電機運転開始

一方、ダムから下流約10kmの地点では、国立公園内の景観保持と冬期の雪害を避けるため、地下200mに「 黒部川第四発電所 」の建設が進められました。完全地下式発電所の建設という世界でも例のない工事でしたが、昭和36年1月1号・2号機発電機が運転を開始。翌年の8月には3号発電機の運転を開始しました。

「くろよん」竣工

そして、昭和38年6月。人間の英知と情熱を集結した世紀の大事業「くろよん建設」は、総工費約513億円(当時)、延べ1,000万の人手、171名の尊い犠牲により、着工から7年を経て完成しました。

「慰霊碑」

「慰霊碑」